| 二上山落日 撮影:1981年5月 |
| 竹内街道フォトギャラリー |
| 近鉄南大阪線磐城駅から南へ200メートルほど歩くと赤い鳥居の長尾神社に至る。竹内街道はここを奈良側の起点として竹内峠を越え大阪府太子町へ、さらに河内平野を西に向かい羽曳野市、松原市を通り堺市の大小路へ至る30キロメートル弱の街道である。ここから北へは穴虫峠を越えて堺市に至る長尾街道、南へは葛城古道、東へは横大路、初瀬街道そして伊勢街道へと続く、嘗ての交通の要衝地である。現在の竹内街道は何度か改修され国道166号線として奈良中部と大阪南部を結んでいる。平成の竹内街道とも言うべき南阪奈道路も建設中だ。旧道は地元民の生活道路となっているが、休日ともなればリュックを背負ったハイカーが行き交うのどかな光景が展開される。 この街道は「日本書紀」に推古天皇21年(613) −難波より京に至る大道を置く− と記載された、我が国最古の国道ともいえる「大道」のルートと大部分が重なっている。飛鳥時代、中国や朝鮮半島のすぐれた技術や文化は、この街道を通じて難波(大阪)から飛鳥の京にへ伝えられ、すぐれた文化をたずさえた渡来人や、我が国から大陸との交流をめざした遣隋使や遣唐使もこの街道を利用し、まさにシルクロードの終着点として賑わった。 大阪府との県境の北側には二上山がある。万葉のむかし「ふたかみやま」と呼ばれたこの山は、飛鳥の京からみて太陽が沈む西の果てにあることから死霊の鎮まる神聖な山であり、この山の向こうに極楽浄土の世界があると考えられたため、河内磯長の地に多くの墳墓が造られた。このように我が国最初のこの国道は、「外交の道」というほかに、飛鳥の京で政治をした人々の「葬送の道」でもあった。山麓の當麻寺は大和における最後の儀礼の場であったのだろう。 このように栄えた街道も、710年に都が奈良の平城京に遷されると次第に外交路としての意味を失い衰えるが、聖徳太子信仰が盛んになるにつれて、街道沿いにある聖徳太子廟やそれを守る叡福寺が霊場となり、太子信仰の道としての性格を強めていった。 自治都市・堺が栄えた中世末には、堺と大和を結ぶ「経済の道」として再び脚光をあび、江戸時代には西国巡礼や伊勢詣、山上参り(大峰詣)の「宗教の道」としての意味をもつようになった。松尾芭蕉が訪れたのもこの時代の事であった。 |
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文献 司馬遼太郎:街道をゆく、朝日新聞社、東京、昭和46年(初版)。 門脇禎二、今駒清則:飛鳥 河内と大和、淡交社、京都、昭和47年(初版)。 鳥越憲三郎、片岡敏男:飛鳥へのふるみち 竹の内街道、新人物往来社、昭和48年(初版)。 金本朝一:太子町・当麻の道、綜文館、大阪、昭和55年(第2版)。 奈良県教育委員会編:奈良県歴史の道調査報告書 竹内街道(二上山麓の道)、昭和59年。 藤井寺市史編さん室編:藤井寺市文化財第7号 河内の古道、藤井寺市教育委員会、大阪、昭和61年。 大阪府教育委員会編:歴史の道調査報告書 第3集 長尾街道・竹内街道、昭和63年。 上方史蹟散策の会編:竹内街道、向陽書房、大阪、昭和63年(初版)。 坂田義三:竹内峠今昔、自費出版、奈良、----。 石部正志編:河内飛鳥を訪ねよう、松籟社、京都、平成元年(初版)。 門脇禎二、水野正好:古代を考える河内飛鳥、吉川弘文館、東京、平成元年(初版)。 青山茂、沢田重隆:奈良の街道筋「下」、草思社、東京、平成3年(初版)。 神野清秀:大阪の街道、松籟社、京都、平成5年(第2版)。 太子町立竹内街道歴史資料館編:平成6年度企画展 絵図でみる竹内街道、平成6年。 椿本九美夫:写真集 竹内街道・當麻路、日本写真企画、東京、平成12年。 ----:特集・芭蕉が見た奈良、歩いた大和、あかい奈良、(13)、4-11、グループ丹、奈良、平成13年。 椿本九美夫:道の文化財・竹内街道、ならら、5(2)、2-7、地域情報ネットワーク、奈良、平成14年。 講談社総合編纂局ほか編:奈良・竹内街道、週刊日本の街道、(53)、講談社、東京、平成15年。 ----:写真旅人・雨上がり、竹内街道の初夏、ならら、7(7)、2-5、地域情報ネットワーク、奈良、平成16年。 朝日新聞社編:竹内街道 葛城みち、司馬遼太郎街道を行く、(22)、朝日新聞社、東京、平成17年。 椿本九美夫:写真集 竹内街道の四季、東方出版、大阪、平成22年。 |